■煙ごしに見える個人主義とパターナリズム--タバコ増税をめぐって
前回のエントリで死刑制度をめぐる議論に見られる個人主義とパターナリズムの対立と相互依存について論じた。議論を進めるうちに、同じようなことがタバコの害をめぐる議論にもあることが気がついた。
タバコ増税に関する二つの見方
まず、政治家が好んで口にするのは公衆衛生を重視した意見である。禁煙を奨励することは国民の健康増進にとって望ましい。しかし「喫煙者には抜きがたい喫煙傾向」があり、更正=禁煙の可能性は低い。だからたばこを禁止する=死刑にするべきだが、それは無理なので、禁止的な税を課して人々の喫煙量を減らすようにしようというものだ。小宮山洋子大臣のタバコ増税論などに典型的なパターナリズムだ。
この議論に対して、ゴリの自由主義者なら「人は健康を害する自由がある」と主張するかもしれない。私もこの意見には賛成だ。人には悪事をはたらく自由があるように、自らの健康を害する自由もある。だから、麻薬だって使用する自由もある。ただ、その結果に責任が負えればいいだけだ。ただし悪事に対する責任は取りきれるものではない。
なぜ差別が発生しました
問題とするべきは喫煙の外部性だ。私は、他人のはき出す汚い煙がたまらなく嫌いだ。別にタバコを吸う者がどうなろうとどうでもいい。私が煙でいぶされるという不愉快な事態を避けられるならそれでよい。私は、きれいな空気を吸う私の自由を、他人の享楽のために奪われたくない。人を殺した者=他人の自由を奪った者は、自らも自由を奪われなければならないように、他人の自由を侵害するかぎりで、タバコを吸う自由は制限されなければならない。しかし、他人に迷惑をかけないのならタバコを吸う選択の自由はある。だから公共の場における喫煙を禁止することが望ましいが、そのルールを施行する場合、特に日本のような社会では監視コストが高くなり、結局、練馬区の歩行喫煙条例のように形骸化してしまう。それで� ��れば、次善の策として高額の税を課するべきだろう。
ここでも個人主義とパターナリズムの相互補完
タバコ税に対するパターナリストの議論には欺瞞がある。公衆衛生を重視するのなら増税などという中途半端なことはせずに、完全禁止を主張するべきである。それを主張しないのは、「個人の自由」に配慮しているからである。もちろん、その配慮は政治的な理由からでしかない。
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一方、個人主義的嫌煙家の主張は、とりあえず公衆衛生派に対する反論としては成り立っている。しかし、問題がないわけではない。それは、公衆の前ではタバコを吸わないが、自分の家の中ではタバコを吸う喫煙者の子供を受動喫煙から守る論理は示していない。家庭内の子供の受動喫煙は児童虐待の一種であるが、純粋なリバタリアンの立場からは児童虐待から子供を守る論理も方策も出てこない。この点について、嫌煙家でかつ子供たちのことを心配する博愛的な個人主義者はパターナリズムを輸入せざるを得なくなる。
上記の個人主義者の議論のもう一つの問題点は増税である。増税による喫煙の制限は、マナーの良い喫煙者まで罰してしまうという問題に個人主義者は頭を悩ませなければならない。そもそも、税自体が本来的に自由を侵害するものなのだから、税による制限は個人主義とは矛盾するのだ。これは殺人者を殺人する死刑制度の矛盾によく似ている。
結果、個人主義者もまた、ある程度はパターナリストとならざるを得なくなる。
ちょっとだけ政策的なこと
タバコ増税に対してリバタリアン・パターナリスト達は好意的である。私も、抑止効果を持つ程度のタバコ税をかけることがもっともマシな策であると思う。
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問題は、税収の使い道だ。被災地復興等の訳のわからないことのためにタバコ税を増税するのは論外だが、喫煙者の厚生の損失を補いつつ喫煙を抑制するために税収を使うのは賢いことだと思う。
たとえば、タバコ税収を、ちゃんと屋根がついていて密閉性が高く、なおかつ居心地の良い喫煙所の増設に使えばよい。これはタバコ税を喫煙者のための公共投資に振り向けることに他ならない。この使い道ならば、増税で不当に罰せられているマナーの良い喫煙者にも歓迎されるだろう。
家庭における受動喫煙の問題は、児童虐待と似ているが、これは、児童虐待の罪が適用できないのであれば、受動喫煙の害の宣伝以外に防止する道はなさそうだ。あとは、あまり筋の良い政策にも思えないが、タバコ税による税収を新築住宅に喫煙所をつけるための補助金として使う手もある。どの程度の効果があるかはわからんが。
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一連の思考を経て、もしかすると様々な問題に対応して、個人主義とパターナリズムのベストミックスのようなものがあるのではないかと思うようになった。個人主義だけでどうにも居心地が悪いし、「原理主義的」な自由主義は非現実的で滑稽にしか見えない。その一方で、全体主義社会において人間は最大の不幸を味わう。結局、自由な社会を基礎としながらある程度のパターナリズムのふりかけがかかっているのが一番おいしい社会のような気がする。これは部族生活が長かった我々人類の性(サガ)と、我々の暮らしは自由な市場があるところでもっとも豊かになるという事実からくるのではないだろうか。
もしもゴリゴリの自由主義的原理に基づく社会があったとすると、それはパターナリズムや集団主義の進入を簡単に許す社会だろう。場合によっては、強烈な国家主義への揺れをもたらすかもしれない。一方、国家主義=全体主義もまた、自由による繁栄を求める人々の力で必ず崩壊する。そうやって考えてみると、近代的市場社会の論理である自由主義=個人主義の側からいかにしてパターナリズムをtameして使うかが現実的な課題のような気がする。
言い換えると、自由を軽んじたがために衰退の道を歩いている日本に、いかに日本人でも納得できるような形で自由を拡大していくかということなんだろう。
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